第一章 行儀見習い

各話表紙 偽りの公爵令嬢は~


◆出発

「おねえちゃん、遠くにおでかけするって、ほんとう?」

 ベッドの上で上半身だけ起こしている弟が、少し不安そうにこちらを見つめる。

 それだけでティナーシェの胸が締めつけられる。彼の名はラーダという。

 ティナーシェは数年前に両親を亡くし、弟と二人家族だ。

 しかもこの幼い弟は体が弱く、喘息を患っており常に家で過ごしている。

「うん……ごめんね。どうしてもいかなきゃならないの。だけど、用事を済ませたら急いで帰ってくるから……だから、それまで待っていてね?」

「そっかぁ。じゃあ、おねえちゃんが戻ってくるまでいい子にしてるから、ちゃんと帰ってきてね」

「もちろんよ。たった一人の弟をほったらかしになんてできないもの。わたしがいない間はミアがお世話してくれるから、いい子にしててね」

 ティナーシェはまだ八歳の弟をギュッと抱きしめる。

 すると姉に応えるようにラーダもギュッとしがみつく。

 小さなぬくもりを感じながらティナーシェの目頭が熱くなった。

「大丈夫よ、ティナーシェ。あなたがいない間あたしがバッチリお世話しておくから!」

 事情を知らないミアは、明るい笑みをティナーシェに向ける。

 王女の手回しで、ティナーシェは表向きは隣国ザールワースへ短期間の語学留学ということになっている。

 ――実際は王を屠るため、行儀見習いと偽り城に潜入することが目的だ。

「ティナーシェばっかりずるいわ。あたしも語学留学したぁーい!」

 ミアの暢気な声が徐々に遠くに感じられ、ティナーシェはこうなるきっかけとなった王女との会話を思い出していた。

 


「やっと許可が通ったわ。あの男、気を持たせすぎよ」

 不満そうに口にしながらも王女は楽しそうだ。

 その手には一通の封筒が握られている。

 開封した封筒の中の手紙には、数ヶ月前から王女が打診していたことの返事が書いてあった。

 化粧台の前に腰掛けた王女の髪を梳かすために、ティナーシェはその背後に立つ。

 すると、王女が鏡越しにこちらに笑いかけてきた。

「ねえ、ティナーシェ。あなたにひとつお願いがあるのだけど、いいかしら?」
「お願い、ですか?」
「ええ。実はあなたに行儀見習いとしてザールワース国に行ってもらいたいの!」

 王女は楽しくてたまらないといった様子で、期待の眼差しをティナーシェに向ける。

「行儀見習いというのは、その、どこかに嫁ぐ前に花嫁修業をするといったものでしょうか?」

 自分とは縁遠い言葉を耳にし、ティナーシェは確認がてら問い返した。

 なにしろ自分はただの平民だ。行儀見習いに行くような家柄ではない。

「そうよ。良家の娘ならよそへ行儀見習いに行って箔をつけなくちゃね」

 そこでティナーシェはぱちくりと目を瞬かせた。

「姫さまが、行かれるのではないのですか? わたしは誰とも結婚する予定はありませんし」
「いいえ。行くのはあなたよ。結婚なんてしなくていいわ」
「え……? おっしゃっている意味がよくわかりませんが」

 ティナーシェのもっともな疑問に、十八歳の彼女より二つ年上の王女は、二十歳とは思えないような妖艶な笑みを浮かべた。

「そうね、わかりやすくいうと行儀見習いに行った先で、男を一人この世から消してほしいの」
「え、消す……?」
「鈍いわね。亡き者にするという意味でいってるのよ」

 世間話をする体で、軽く『消す』『亡き者』といった単語を口にする王女の後ろで、ティナーシェは固まり櫛を床に落としてしまう。

 絨毯の上に落ちた櫛は音すらまともに聞こえなかった。

「ザールワースの王をさくっと殺してきてほしいの。大丈夫よ、行儀見習いとして城に入れば怪しまれることはないわ。正式な許可を得るのに二ヶ月もかかったんだから」

 青ざめるティナーシェの耳に容赦なく王女の信じられない言葉が入ってくる。

 聞きたくないと思うほどに、それはこびりついて落ちない汚れのように耳に纏わりついた。

「な、にを……おっしゃっているのか……」
(行儀見習い……殺す、って…………わたしに人を殺めろというの!?)

 思わずティナーシェは一歩後ずさる。それに気づいた王女が衝撃的な一言を口にする。

「逃げられると思っているの? 今の話を聞いた時点で、あなたと私は共犯よ。誰かにバラしたらあなたも弟の命もないわよ?」

 王女は鏡越しにそれはもう優雅に微笑んだ。

 これが普段であればどれほど魅力的に見えただろう。

 誰もを魅了するであろう笑みも、今のティナーシェにとっては恐怖でしかない。

 目の前に悪魔か死神でも現れたらこうなるだろうというような、不安と恐怖に体が小さく震えた。

 反射的にティナーシェはふるふると首を左右に振り、拒絶していた。

「私の役に立ってもらうわよ、ティナーシェ」
「……っ、ゃ、いや、です……」
「おばかさんねえ、拒否権はないのよ?」

 あなたは私の手駒なの、という言葉が言外に伝わってきて、ティナーシェは息を呑んだ。

(なんて恐ろしいことをいう人なの……この二年間お仕えしてきたけど、こんなかただなんて思わなかった! 信じたくない! 誰か嘘だといって……!)


 ――これが約一週間前の出来事だ。

 

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偽りの公爵令嬢は~
~桜猫*日和~